私が考える“他者の課題”に対して私たちが在るべき姿について

こんにちは!Takuya.B(@TB_IQ)です。

私は自分の課題と他者の課題を切り分けると対人関係のストレスが激減しました。他者の課題は自分ではどうすることもできないので、気にするだけ無駄です。

こういうことを言うと「本当に困っている人でさえも見捨てるのか!」と怒られてしまいます。そこで、今日は『他者の課題に対する自分自身の在り方』についてお話します。

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 誰がその課題を解決するのか?

他者の課題に対して自分はどう接していくべきなのかについてアドラー心理学とは一歩離れて私自身の持論を言います。

まず根本に立ち返って考えてみましょう。

誰がその課題を最終的に解決するのか”によって自分の課題と他者の課題は分けられます。

他者の課題と他者自身を混合してはダメ

自分の課題と他者の課題を切り分けるということは、困って救いの手を求めている人を突き放せというわけではありません。

ネット界隈を見ていると、困っている人を見かけても「ざまぁwww」の一言で片付けたり、「知らねーよwww自業自得だろwww乙」というノリで他者を突き放している人をよく見かけます。見て見ぬフリをする人も同様です。

自分の課題と他者の課題を切り分けることは大事な考え方ですが、他者の課題を他者自身と勘違いしてはいけません。このような人たちが突き放しているのは他者の課題ではなく、他者自身です。

こういう人はアドラー心理学の理解以前に、根本的な人間性が欠如しています。無論、それが正義だというのであれば構わないのですが。

他者の課題を“切り分ける”と“突き放す”は違う

また、自分の課題と他者の課題を切り分けるという考え方は、そもそも他者の課題に“介入”しないための方法であって、救援要請を断固拒否するためのものではありません。

良い例を思いつきました。救急車をイメージしてみてください。

他者の課題を突き放すという行為は、119番に電話をかけて救急車を呼ぶのに救急側が「行きません!」と拒否しているようなものです。

他者の課題に対して自ら介入する行為は、救急要請も無いのに街中を救急車で走り回ってベンチで休んでいるお婆ちゃんの元にかけより、「大丈夫ですかァアアアア!!!どこか痛いところはありませんかッ?!今すぐ病院に行きましょう!!!!」と無理矢理連行しているようなものです。

お婆ちゃんからしたら「やかましいわ」としか思わないでしょう。

実際の救急車は119番通報があった場合、迅速に駆けつけてくれます。自分の課題と他者の課題を切り分けるということは、日本で行われている救急車を呼ぶときの一連の流れと同じと考えることができます。

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他者の課題に対して私たちが在るべき姿

私はこのような『救急要請があれば、いつでも駆けつける準備ができている』状態が理想だと考えています。

しかし、勘違いしてはいけないのは救急隊員は病院まで連れて行くことができても『手術をすることはできない』ということです。つまり、『馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』ということです。

私たちが他者の課題に対して在るべき姿というのは、“救急要請があれば、いつでも駆けつけて病院まで連れて行く”ことができる状態では無いでしょうか?

まとめ

自分の課題と他者の課題を切り分けるということは『他者の課題を突き放せ』というものではありません。他者の課題と他者自身を混合するのは言語道断です。

私たちが他者の課題に対して在るべき姿というのは救急要請があるまで駆けつけない(=介入しない)けれども、要請があればいつでも迅速に駆けつけて病院まで運ぶ救急車のような寛容な姿では無いでしょうか?

そうする気が無く突き放そうとするのはアドラー心理学云々ではなく根本的に人間性に問題がありますし、「助けてあげたいけど余裕がない」というのは自分の課題です。

自分の課題に目を向け、他者の課題に対して寛容な振る舞いをしていきたいものです。

これらの考え方については『嫌われる勇気』がオススメです。自分の課題と他者の課題を切り分けるという考え方について分かりやすく解説されています。